VUCA時代の羅針盤。企業経営の軸に「感性」を据えるべき理由
2024年8月30日 公開
「感性に響く価値を創りだし、心豊かな未来に挑む」
120年以上の歴史を持つ化学メーカーartience(アーティエンス)の新たなブランドプロミスだ。
今年1月に社名を変更し、大胆な組織改革を進めている同社は、「感性」を新たな経営の軸に据えた。
AI時代の生き残り戦略、イノベーション創出、組織風土改革──。多くの企業が抱える課題に「感性」を起点に答えを出す。
そんな同社のスタンスは価値観が揺らぐ時代に有効な施策となり得るのか。
『デザインとビジネス 創造性を仕事に活かすためのブックガイド』などの著書がある武蔵野美術大学の岩嵜博論教授、artience株式会社グループCEOの髙島悟氏、同社インキュベーションセンター所長の髙橋隼人氏が語り合った。
効率より価値創造が重視される時代へ
髙島 私たちは2024年1月に「artience」へと社名を変えました。とにかく変革しなければという思いからです。
AI(人工知能)の登場で世の中が劇的に変化し、先行きが見えない時代に生き残るには、価値を創造していける企業にならなければならない。そのためには、これまで大事にしてきたサイエンスに加え、アートの視点が必要になる。
サイエンスとアートを融合し磨き上げることによって生まれる「感性価値」というものを、感性の本質である人を中心に据えて創り出していこうと走り出したのです。
慶應義塾大学法学部卒業後、1984年4月に東洋インキ製造株式会社(現:artience株式会社)に入社。米国・タイ駐在を経て、2013年取締役就任。2014年グループ会社であるトーヨーケムの代表取締役社長に就任。2020年代表取締役社長グループCOO、2022年3月代表取締役社長グループCEOに就任。メディカル事業の立ち上げや事業会社の統廃合など、大胆なグループの変革を牽引。
岩嵜 感性に光を当てた、サイエンス・プラス・アートというアプローチは時代に合っていると思います。
私はよく「オプティマイゼーション」から「バリュークリエーション」の時代になると言っています。
効率が絶対だった時代から、価値創造型ビジネスの時代へシフトする。そこで求められる価値には、ワクワクや驚きなどが含まれているでしょう。
効率では説明できないもの。そんな感性の領域こそが、これから重要になってきます。
リベラルアーツと建築・都市デザインを学んだ後、博報堂においてマーケティング、ブランディング、イノベーション、事業開発、投資などに従事。2021年より武蔵野美術大学クリエイティブイノベーション学科に着任し、ストラテジックデザイン、ビジネスデザインを専門として研究・教育活動に従事しながら、ビジネスデザイナーとしての実務を行っている。 ビジネス×デザインのハイブリッドバックグラウンド。イリノイ工科大学Institute of Design修士課程修了、京都大学経営管理大学院博士後期課程修了、博士(経営科学)。
髙橋 感性価値を創出し続ける組織になるためには、風土そのものを変える必要があります。
新しいものを否定しない風土、新しいものを受け止める文化、新しい事業を創り出す仕組みづくり、などです。
昨年1月、新事業の創出を推進する「インキュベーションセンター」が新設され、私は所長を務めています。
本センターでも風土改革につながる活動を始め、多くの社員に新たな価値観を共有する機会を広げています。
慶應義塾大学大学院卒業後、2003年4月に東洋インキ製造株式会社(現:artience株式会社)に入社。R&D本部でナノ分散技術を用いた機能性コーティング剤事業の新規立ち上げに成功。その後、研究・開発、生産技術、マーケティング・営業など幅広い職種を経験。2023年1月に新設されたインキュベーションセンターの所長に就任。新規事業創出のための社内風土改革・社内提案制度・オープンイノベーションなどを推進中。
岩嵜 artienceが創出を目指す「感性に響く価値」とは、具体的にどのようなものになるのでしょうか?
髙島 様々な形が考えられますが、一つ例を挙げます。
インドは私たちにとって非常に重要な市場です。先進国が経験してきた大気汚染や水質汚濁などの環境問題を、インドに繰り返させてはならない。
この思いから、私たちは「水性フレキソインキ」という、溶剤型ではない環境に優しいサステナビリティ貢献製品を開発し、インド市場で高い評価を得ています。
感性価値には社会や環境に対する深い洞察と、何かを成し遂げたいという強い意志を包含しています。
それぞれの地域の文化や文脈を理解し、そこから最適解を見出すこと。そして、その過程で生まれる「思い」を持って社会課題の解決に当たること。
これも感性を軸にしたビジネスのあり方の一つと考えています。
岩嵜 なるほど。私はデザインの知をどのようにビジネスの文脈にいかすことができるかを研究しています。両者の接点を作る上で重要な条件の一つが「共感」です。
共感というと、日本人は「シンパシー」を連想しやすい。このシンパシーが同情や憐れみを表すのに対し、「エンパシー」は相手の立場に立って考え、感じることを意味します。
社会や一人に寄り添い、自分じゃない誰かの気持ちになろうとする。髙島さんのインドのお話は、まさにエンパシーの実践と感じます。
髙橋 他者理解は重要ですよね。先日、インキュベーションセンターと他社との共催で「質的思考」のワークショップを実施しました。
質的思考とは、一見、非合理に思える他者の言動を、そんなのおかしいと一蹴するのではなく、その人なりの合理性を理解しようと、相手の思考に寄り添うこと。
いかに他者に近づくか。そうした試みは、お客様の潜在的なニーズに気づき、新しい価値を提供することにもつながると考えます。
時代の複雑性に向き合うために必要な力
岩嵜 新しい価値の創出には、イノベーションをいかにして起こすか、という観点も必要になってくると思います。
イノベーションの条件は、一言でいうと「新結合」。カメラと携帯電話が一緒になったスマートフォンが典型です。
ポイントは、要素同士を単に組み合わせるのではなく、美しくまとめること。ここはまさに感性が問われる領域。
サイエンス偏重だとイノベーションもうまくいきません。
髙橋 イノベーションの創出には、「セレンディピティ(偶然の出会い)」をいかに誘発するかという発想も必要になりませんか。
単なる偶然に委ねるのではなく、「計画的偶発性」をデザインするという考え方です。
岩嵜 心理学者のジョン・D・クランボルツ教授の理論ですね。
キャリア形成は偶発性に左右されることと、その偶発性は好奇心や冒険心を持っている人に起こりやすいと指摘しています。
意識的に多様な人に出会い、その結果として運が開けていく。オープンになって行動しないとセレンディピティは発生しません。
髙橋 インキュベーションセンターの役割もそこにあります。
今年から開始した「Incubation CANVAS Program」では、他社が主催する様々なイベントに京橋オフィスのフロアを提供しています。
宇宙イノベーションフォーラムやAI開発者のワークショップなど、一見すると当社の現在の事業と関係のないものも多く、最近では、小学生が事業アイデアを発表し、学生らが支援するというエッジの立った企画を支援しました。
このような場に社員にも足を運んでもらい、新しい出会いやイノベーションのアイデアが生まれることを期待しています。
岩嵜 大企業におけるイノベーションには「兆し」「妄想」「執着」の3ステップが必要だと考えています。
「兆し」は英語でいえばウィークシグナル。イノベーションの種は往々にして見つけにくいものですが、インキュベーションセンターはこれを探し出す仕組みと言えそうです。
見つけた種から「妄想」で大胆にアイデアを膨らませ、「執着」で実現する。この3つが揃ってイノベーションが生まれます。
ただし、イノベーションを追求する際、今日の経営環境を考慮する必要があります。
企業はこれまで短期的な市場性を重視していましたが、これからは長期的な視野で経済合理性とサステナビリティを両立させていかなければなりません。
髙島 今の岩嵜先生のお話を、私たちはMQYDC(Monthly, Quarterly, Yearly, Decade, Century)と表現しています。
月次での予算管理、四半期ごとの業績開示、年度での税務対応、10年単位の中期計画、そして100年単位の長期ビジョン。
これら全てを同時に考え、実行することが、サステナブルな経営につながっていく。この多角的な時間軸での思考こそ経営の醍醐味だと感じています。
岩嵜 VUCA時代には、多角的な時間軸で市場の変化を見通し、混沌とした状況下で意思決定を行う必要に迫られます。
artienceが追求する感性やクリエイティビティは、こうした複雑な環境下での問題解決に有効なアプローチとなるかもしれません。
ビジネスの世界では通常、複雑性を避け、意思決定環境をシンプルにしようとしますが、新しい事業や未経験の環境に直面した際には、その複雑性に向き合う必要があります。
感性を基盤としたクリエイティビティな思考は、複雑性と向き合い、新たな価値を生み出す力となり得ます。
髙橋 一方で、感性やアートという概念を、特に製造業の現場にいる社員に浸透させることは容易ではありません。腹落ちしていない社員も少なからずいます。
この状況をどう克服すればよいのでしょうか。
岩嵜 私は「デザイン筋トレ論」を提唱しています。感性やクリエイティビティは特別な才能ではなく、誰もが鍛えられる能力である、ということです。
それを多くの方に気づいてもらうためには、日々の業務の中で「このアプローチは感性の観点からどういう意味があるか」を考える機会を設けるなど、小さな実践を積み重ねることが望ましいと考えます。
髙島 それに近いものとして、当社では「一日一感」という行動指針を掲げています。
感動でも感謝でも良いので、日々何かを感じ取る習慣をつけ、周りにも共有していこう、と。
岩嵜 素晴らしいですね。そういった個人の感性を大切にすることで、社員の内発的動機やエンゲージメントが高まり、組織にイノベーションの土壌が生まれていくと考えます。
髙島 感性を大切にしながら社員のエンゲージメントを高め、「人」を軸にイノベーティブな組織へと進化していく。そうすることで、お客様に新たな価値が提供できるようになると信じています。
新たな価値創造を目指して、最近動き始めたユニークなプロジェクトがあります。日本大学の大澤正彦准教授との共同研究です。
『ドラえもんを本気でつくる』という著書で知られる大澤先生は、Human-Agent Interaction(HAI)、すなわち人間とAIの理想的な関わり方を研究していらっしゃいます。
先日、興味深い実験結果を聞きました。豊橋技術科学大学の岡田美智男教授らの研究で、ゴミ拾いロボットにスーパーマーケットで活動させたところ、ロボットがゴミの前でモジモジするなど人間らしい仕草を見せると手助けする客が現れたそうです。
やはり人は、人間的な振る舞いをするロボットに共感してしまう、と。
こうした「感性」に正面から向き合う共同プロジェクトで、大澤先生のHAI技術と当社が磨いてきたセンシング技術を組み合わせて、人に寄り添うAIエージェントの開発を目指しています。
岩嵜 興味深いプロジェクトですね。技術開発でも感性アプローチを取り入れているのは素晴らしい。
こういった具体例があれば、社員の皆さんも感性の重要性をより理解しやすくなるでしょうね。
髙島 こうした取り組みを通じて、感性価値に焦点を当てた今回の変革が社内外から共感されることを願っています。
組織変革は一朝一夕には実現できませんが、今後も迷わず進んでいきたいと思います。
Produced by NewsPicks Brand Design
執筆:下瀬悠
撮影:小島マサヒロ
デザイン:久須美はるな
編集:下元陽