組織に化学反応を生み出す。「セレンディピティ」を生む攻めの経営

2024年6月12日 公開

コピーバナー:変身する100年企業

120年以上の歴史を持つ印刷インキの老舗メーカーが大胆な組織改革を進めている。
2024年1月、東洋インキSCホールディングスから「artience」(アーティエンス)へと社名を変更した同社は、顔料や樹脂の設計技術や分散技術を強みに世界24の国・地域で事業を展開。
スマートフォンや電気自動車などに使われるリチウムイオン電池用材料を製造するほか、大ヒットした生ジョッキ缶の内面塗料を開発するなど高い技術力を誇る。
サイエンス(science)の合理性にアート(art)の感性を掛け合わせた経営で、課題解決型から価値創造型への転換を図ろうとする同社の改革は、専門家にはどう映るのか。
グループCEOの髙島悟氏と経営学者の名和高司氏が語り合った。

What's artience?/創業128年、24の国と地域で事業展開する化学メーカー/生活に密着した製品群で高いシェアを誇る/パッケージ用インキ・接着剤、缶用インキ・塗料で日本シェアNO.1/ディスプレイ用カラーレジスト、エレクトロニクス用機能性フィルムで世界シェアトップクラス/※シェアはartience調べ、2024年/2023年12月期 売上高3,221億円・営業利益134億円/2024年1月に社名を変更/旧:東洋インキSCホールディングス株式会社→新:artience株式会社/art:色彩をはじめとした五感や心への刺激、リベラルアーツの観点/science:技術や素材、合理性

「茹でガエル」になるつもりはない

髙島 「感性に響く価値を創りだす」との思いを込めて、今年1月に「東洋インキ」から、「art」と「science」を合わせた「artience」に社名を変更しました。
これまでも理性に基づいたサイエンス思考を経営の核にしてきました。
そこに感性や情緒を伴う「アート」を融合させることで、新しい価値が生まれるのではないかと考えたのです。
アートには、リベラルアーツや人文科学の発想も含まれます。
自然科学、サイエンスの答えは一つですが、それをどう使うかとなると、答えは一つではありません。
企業の役割は課題解決と価値創造。アート思考は、出口の見えない問題や絡まり合った課題を解きほぐし、新たな価値を創造するためのカギとなります。

髙島 悟/Satoru Takashima:artience株式会社 代表取締役社長 グループCEO

慶應義塾大学法学部卒業後、1984年4月に東洋インキ製造株式会社(現:artience株式会社)に入社。米国・タイ駐在を経て、2013年取締役就任。2014年グループ会社であるトーヨーケムの代表取締役社長に就任。2020年代表取締役社長グループCOO、2022年3月代表取締役社長グループCEOに就任。メディカル事業の立ち上げや事業会社の統廃合など、大胆なグループの変革を牽引。

名和 すごく大事な視点ですね。シリコンバレーではこれまでScience、Technology、Engineering、Mathematicsの頭文字をとったSTEM教育が注目を集めました。
今はそこにArtが入り、STEAM教育が重要とされています。
AIが爆発的に普及する中、それを正しく使いこなすためには人間の想像力が不可欠とする見方が広がっている。
哲学、歴史、心理学などの知見がビジネスシーンにおいても重視されているのです。
その背景を踏まえると、アートを社名に据えるのは、先見の明がおありだなと感じました。

名和 高司/Takashi Nawa:一橋ビジネススクール 客員教授

東京大学法学部卒、ハーバード・ビジネス・スクール修士(ベーカースカラー授与)。三菱商事の機械(東京、ニューヨーク)に約10年間勤務。 2010年まで、マッキンゼーのディレクターとして、約20年間、コンサルティングに従事。自動車・製造業分野におけるアジア地域ヘッド、ハイテク・通信分野における日本支社ヘッドを歴任。日本、アジア、アメリカなどを舞台に、多様な業界において、次世代成長戦略、全社構造改革などのプロジェクトに幅広く従事。 2010年6月より、一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授に就任。

髙島 正直、危機感もありました。最近は回復傾向にありますが、市場の縮小に伴い業績が伸び悩む時期が続いていました。
会社に未来が感じられないことを退職理由に挙げる若手社員も多数いました。
「茹でガエル」になるのは避けなければならない。社名変更の背景にはそんな思いもあります。

名和 それで大胆な組織改革に着手したわけですね。

髙島 はい。ただ、自分たちの特長は変わらず活かします。
例えば、スマホや電気自動車などに搭載するリチウムイオン電池が世界的に注目を集めていますが、それに伴い、当社のカーボンナノチューブ分散体の需要が飛躍的に高まっています。
リチウムイオン電池正極材の導電助剤として用いられるものです。
当社製品はリチウムイオン電池の高容量化、高出力化、長寿命化などに寄与しますが、そこに活かされているのは、顔料や樹脂(ポリマー)の形状・表面状態を制御する「分散技術」。
素材を混ぜて、解きほぐし、液体中や固体中に均一にバラバラに分布させる技術で、高度な分散技術を持っていることが当社製品の競争力の源泉の一つです。

分散技術とは:粒子の形状・表面状態を制御する技術。粒子が持つ優れた機能を最大限引き出す。/活用先:印刷インキ、ディスプレイ材料、リチウムイオン電池用材料 など

名和 「混ぜる」と言いながら、「分散技術」と呼ぶのが面白いですね。
混ぜると素材が一体化して固まる印象を持っており、「分散」の言葉のイメージとは異なります。

髙島 かつてのココアは、粉末が“ダマ”にならないよう、お湯を入れて少しずつ溶いていましたよね。
本当に混ざるためには、まずは塊を解きほぐしてあげることが必要なのです。

artience株式会社 代表取締役社長 グループCEO 髙島

この分散技術を活かしたリチウムイオン電池用材料が今まさに成長の柱になろうとしています。
モビリティ・バッテリー市場と半導体や次世代ディスプレイなどの先端エレクトロニクス市場を戦略的重点事業と定め、これらの成長市場において、アートとサイエンスを融合させながら我々独自の新たな価値を提供していきます。

課題解決から価値創造型への転換

髙島 当社はこれから自社の強みを活かして新たな市場を自ら創り出すスタイルへとシフトしていきます。国内企業だけでなく、グローバルの先進企業とも積極的に向き合っていく。

名和 国内企業を対象としたカスタマーソリューション型から、グローバルを舞台にしたマーケットソリューション型へシフトする。
この変革は、「企業の役割は課題解決のみならず価値創造にもある」とおっしゃっていたことともリンクしますね。
新しい市場を作る上で大切なのは、マーケットアウトの考え方です。
顧客の目の前にある悩みよりも先にある将来の困りごとをartienceがいち早く見つけて提案していく力が問われます。
既存事業の枠を超えた発想を生み出す仕組みも必要になってきそうですが、いかがでしょうか。

写真左から、一橋ビジネススクール 名和 高司客員教授、artience株式会社 代表取締役社長 グループCEO 髙島

髙島 「セレンディピティ(偶然の出会い)」という言葉がありますよね。
未知なるものを結びつけたところに偶然の産物として新たな発想やイノベーションが生まれる。
それを意図的に発生させるための取り組みを今年からトライアルで始めました。
当社が入居する「京橋エドグラン」の29階を活用し、「Incubation CANVAS Program」と題して、スタートアッパー、研究者、政府関係者、投資家などを融合させる交流会やイベントを定期的に開催しています。当社社員も自由に参加できます。
サイエンス思考とアート思考が自在に交差する中でセレンディピティを起こしていく。
そういう場を設計することも、経営者の重要な仕事と考えます。

Incubation CANVAS Programとは/国内外の事業会社、政府関係者、スタートアップ、投資家などがエコシステムを形成し、自由なパートナーシップによりサイエンスを社会実装していくためのプログラム/主な提供内容:様々なジャンルの招聘イベント、ビジネスマッチングイベント、事業創出支援イベント/今後の構想:①サイエンスの社会実装を目指す方々のための会員制インキュベーションスペース ②パートナー企業を通じた研究者およびスタートアップ向けの支援コンテンツ ③研究者および研究系スタートアップへの海外創業・海外事業展開支援活動

名和 まさに多様な人材を「混ぜる」という話ですね。
近年、組織のD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)が盛んに取り沙汰されていますが、“ステンドグラス”のイメージで語られることが少なくありません。
ステンドグラスはさまざまな色が共存していますが、それぞれが自分の色を維持したままその環境にハマっているだけとも言えます。そこに化学反応は起きていない。
だからこそ、「混ぜる」が重要なポイントになってくる。
異なる人材やアイデアが混ざり合う場を設けているのは、化学メーカーらしいアプローチだなと感じました。

髙島 過去に偶然の出会いの重要性を実感した出来事があるんです。
私がかつて社長をしていたグループ会社のトーヨーケムは、缶の内外に塗る塗料で国内最大のマーケットシェアを誇っており、古くから実績があります。
ある日クライアントに呼ばれて、ダメ出しをされたんです。「蓋を開けるとおたくの塗料のせいで泡があふれ出てしまって、ビールが売れない」と。
それから5年ほど経ったある日、アサヒビールさんとの技術部門交流会の場で、ビールの旨さと泡の関係についての話になりました。
そのとき、当社の担当者が当時の失敗談を打ち明けると、アサヒビールさんは「それ面白いですね。蓋を開けたときに泡の出る缶用の塗料を一緒に開発しましょう」と。そうして生まれたのが、大ヒットした生ジョッキ缶です。
やはり化学反応を起こすには、人もアイデアも混ざることが必要です。

生ジョッキ缶ができるまで/缶ビールの缶に関する常識/缶ビールの泡立ちを抑える=成功・缶ビールが泡立ち、噴き出してしまう=失敗/ところが... アサヒビール株式会社「缶ビールの蓋を開けたときに泡立つ商品を作りたい」/アサヒビール×artienceグループの共創/トーヨーケム(artienceグループ)が蓄積した製缶塗料技術:内容物から缶を守る、缶の金属成分が内容物へ溶け出し風味が変化することを防ぐ/アサヒビール社とのパートナーシップ:これまでの常識とは正反対の発想、缶内面に凹凸を形成し泡立ちを最適化する製缶塗料を開発/アサヒスーパードライ生ジョッキ缶 誕生/飲食店のような生ジョッキビールの味わいを再現していると話題に

「PDDDDCA」が組織を変える

名和 今のお話は0から1が生まれたケースですが、創出されたイノベーションを「1→10」「10→100」とスケールさせるのが御社の次なる挑戦かと思います。
アサヒビールとの取り組みを他の飲料メーカーにそのまま横展開することは契約上難しい。
それを見越して、クライアントとの野心的な共創については、クライアントに特化した技術と、共通化して外に出せる技術とを切り分け、後者を他の顧客にも展開できるように整備しておく、といったことです。
これはカスタマーソリューションとマーケットソリューションの違いそのものと言えるかもしれません。
新たなマーケットを作ることを意識しながら、特定クライアントとの「0→1」に取り組むことが大切ではないでしょうか。

一橋ビジネススクール 名和 高司客員教授

髙島 そういう「1→10」を担う部門がなかったことが当社の課題でもありました。
今回の組織変革の中でそのための部門や仕組み、挑戦する文化・風土をまさに作ろうとしています。
他方、「0→1」の種もしっかり蒔いていく。先ほどの「Incubation CANVAS Program」に加え、社内から広く新規事業のアイデアを募り、事業化を支援するビジネスアイディアコンテストも始めています。
事業アイデアのブラッシュアップ段階では、新規事業創出支援を行う外部企業に伴走してもらっています。そこで社員は新たな視点を養える。
こういう仕組みがあることで、一人ひとりの社員のチャレンジ精神に火がついてきています。

artience株式会社 代表取締役社長 グループCEO 髙島

名和 素晴らしいですね。昨今、「人的資本」という言葉がキーワードになっていますが、私は「人材開発もいいけれども、組織開発もしてください」とよく言っています。
優れた人材は自分の力が10倍化される組織を求めています。それは人材投資が豊富な会社、といった単純な話ではありません。
その企業でしか得られない経験やなし得ないことがあり、その環境に身を置くことで潜在能力が最大化される企業を求めている。
個人でも最先端の仕事ができる高度な能力を持ったスタープレーヤーが、わざわざMicrosoftをはじめグローバルの先進企業に所属するのは、そのような理由からと言われています。
その意味で、artienceが社員に新たな経験を提供し視点を広げるための仕組みづくりを積極化させながら組織変革を進めているのは、非常に良いことだなと思います。

髙島 ありがとうございます。極論すれば、組織改革とは社員のマインドセットをどう変えていくかだと思います。
現実的に、いきなり100人全員を変えるのは難しい。ただ、100人のうち10人、特に10人のうち1人か2人のマインドが大きく変われば、周りにも「やってみよう」とか「面白そうだ」という気運が広がっていくと考えます。

一橋ビジネススクール 名和 高司客員教授

名和 組織には「自燃性の人」「可燃性の人」「不燃性の人」がいて、さらに「消火性の人」もいるぐらいです(笑)。
よく「20:60:20の法則」と言いますけど、「すでに火がついている人」と「まったく火がつかない人」を除いた60%のうち10%に火がつくだけで、すごく変わると思います。
御社には、それができる文化がある。artienceは行動指針の一つに「PDDDDCA」を掲げていらっしゃいますよね。

髙島 はい。受注生産の歴史が長い会社だけに、計画より、とにかく行動を重視する文化を作ってきました。
機敏さを重視して、まずはやってみる。Pを除いて、「DCAD……」でも良いくらいだ、と。

名和 「D」が普通より三つ多く、しかも続いている。PLANで終わってしまう会社が多い中、御社はDoにこだわる文化が根付いているのが素晴らしい。

写真左から、artience株式会社 代表取締役社長 グループCEO 髙島、一橋ビジネススクール 名和 高司客員教授

その文化に背中を押されて新たな挑戦をした人が失敗をすることもあると思います。
そんな時も、失敗を単なる失敗として扱うのではなく、逆にそれを自慢できるくらい肯定的に受け止められる空気を作れると良いですよね。
もちろん成功した人は、ヒーロー・ヒロインになればいい。
スター社員が成功すると「あいつだからできるんだ」となりますが、60%の普通の人がやり始めたら、組織はどんどん変わっていく。
御社にはその土壌がありそうですし、挑戦するマインドが広がった先にartienceの新たな文化が花開くのではないかと思います。

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執筆:下瀬 悠
撮影:黒羽政士
デザイン:久須美はるな
編集:下元 陽